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2007年8月14日 (火)

医事紛争とインフォームド コンセント

インフォームド コンセント

                        山本 愛彦

最近 よく見聞きする言葉である。主に医学・医療界で使われていて、

informed  consent ”の 発音どおりの表記である。

医療現場では、「説明と同意」と簡訳されている。念のため辞書で調べてみる。

 スーパー大辞林では、

「〔説明をうけた上での同意の意〕 医師が患者に 診療の目的・内容を十分  に説明して、患者の納得を得て治療すること」、とある。

 また、原意に迫るべくOXFORD現代英英辞典を引くと、

informed ”は〔 having or showing a lot of knowledge about a particular

subject or situation 〕と示されている。

consent ”は、①〔 permission to do something, especially given by somebody

in authority 〕、②〔 agreement about something 〕、③〔 an official document giving permission for something 〕とある。

医療に関する例文は①の所で“ Children under 16 cannot give consent to medical treatment ”として挙げられている。

informed  consent ”として結びつけると、「特別な事象について 十分な知識を持った上での/知識を充分に示した上での 施行許可」とでも訳せようか。

この言葉を初めて目にしたのは、二十年以上前の、英語の症例報告でのことであった。記憶では、論文の初めのほうに“ informed consent”(以下IC)と記載されていて、動詞はgetobtainであったようだ。何となく語感は伝わってきても、実感は沸かなかった。               

何故なら、日本では、稀な疾病や 新しい知見を得た患者の病態を 学会誌に投稿する際に、患者にその旨断る事はしていなかった。いや、当時はする事を考えもしていなかった。

一方外国、特にアメリカでは、論文発表の際には、「貴方の病像・病態を論文発表したいが宜しいですか」。「貴方にはこういう病気があり、検査でこれまで不明な原因が分かり、有効な治療に繋がった。同病で困っている人達や 診療に難渋している医師への参考になります」。こういった意味合いで、『医師が患者に 論文投稿の主旨や内容を充分に説明し、患者の承諾(≒許可)(=IC)を得る』、こういう手続きが必要なのだと考えていた。

   

即ち、アメリカでは< 診療によって得られた医療情報(データ)は、患者に帰属する >もので、日本とは捉え方がかなり違っていたようだ。

ICの歴史を概観すると、大きく二つに分けられる。

ひとつは 1950年頃から、ナチスの人体実験の反省に始まり、<医学研究>での倫理的原則を示したヘルシンキ宣言(1964年)に至る。その後修正が重ねられているが、その第22項には、次のように書かれている。

「ヒトに対するすべての研究では、各被験候補者は、その目的、方法、資金源、発生しうる利害の衝突、研究者の所属組織、予測される利点と起こりうる危険、そして研究に伴う苦痛・不快について、十分に知らされ( informed )ねばならない。被験者は、研究に参加しない権利や、報復なしに いつでも参加のコンセントを撤回する権利があることを告げられて(同)然るべきである。 被験者がこれらの情報を理解したことを確かめ、しかる後、医師は、自由意志に基づくインフォームド コンセント(初出)を-文書が望ましい-得るべきである。以下略」(筆者訳)

  医学研究では、ボランティアという事からも 十分な配慮後の『承諾』が必要だ。

 もう一つは 同じ頃アメリカで起こった 種々の人権意識の高まりのなかで、<実際の診療の場>での患者の知る権利や自己決定権など様々な権利を主張する動きが、1973年アメリカ病院協会「患者の権利章典」へと繋がった。その第3項は下記のとおりである。

「患者は、いかなる医療技術や治療でも、それらが始められる前に、インフォームドコンセントを与えるのに必要な情報を、医師から受け取る権利がある。以下略」  

(オリジナルは入手出来ていない)

この他の項では、患者の診療全般にかかわる情報を知る権利、プライバシーの尊重権やいくつかの期待権などが列記されている。医療側の義務も記載されている。

1992年の改訂版には、“ informed consent ”という言葉は見られない。そして「診療へのICを与える・・」のではなく、「診療計画について決定する権利」という表現に取って代わっている。“ consent ”は研究や試験への参加依頼文でのみ見られる。

なお、患者や家族の医療上の責任について加筆されている。

1995年のリスボン宣言でも同様に「患者の権利」が並べられている。“ informed consent ”は、意識のない/意志表示の出来ない患者の項で使われているのみである。

この2つの「患者の権利」声明を通読して感じるのは、『医療での主体は患者である、患者が自分に関する全ての医療情報を知り-勿論医師の意見を参考にしながら-あらゆる診療方針を選択・決定し、ゴーサインを出す(または出さない)権利がある』ということである。患者側のありとあらゆる権利と 医療側の義務が網羅され、その人権意識の高さ、というより強さ・恐ろしさ(法廷闘争?)を感じるとともに、これまで(現在も?)、余程の不当な扱いや虐げられた歴史が、その文言に込められている様に思えてならない。

 日本では、遅れて1984年に「患者の権利宣言」、1990年には日本医師会がインフォームド コンセントを「説明と同意」として報告している。現在では、「ICを得る」ことは、日常診療のあらゆる面において必須の行為になりつつある。

勿論これにはそれなりの理由がある。一言で言えば、「医者(を含む医療従事者=以下医療者)を信用できない」ということであろう。医が仁術でなくなり、医療過誤が頻発していること、即ち医師の質の低下と関係している。不正請求や余りにも未熟な技量による診療行為など話にならない事例もある。これらは法的取締りが必要だが、こういった極端な例は除くとしても、トラブルは多発している。その最大の原因はインフォームド コンセントの訳、『説明と同意』にいみじくも示されている。

まずは<医師の絶対的な『説明』不足>である。その背景には多忙(時間不足)、医師・患者間の上下関係や 医療知識の大きな格差( medical divide )、また説明の仕方の不適切さなども含めると、量・質共に問題があったのは間違いない。一方、患者側の自主性の低さも指摘できよう。諸事情があるにしろ、自分の健康・生命・人生を左右する事柄なのだ。

もう一つは 『同意』を得たことの<証拠>が残されていないことである。問題となるのは、副作用、後遺症、最悪の場合には死亡にいたった場合で、診療に伴う危険性について事前に「言った・説明した」、「言わない・聞いてない」などの不毛の争い事が実に多い。  

また『同意』は、患者側が医療者の提案・考えに賛同したことを示す言葉で、医師側の主導が現れている。裏返すと、患者の主体性が見られず、大きな医療傷害の場合、合併症・偶発症に関する情報が明文化されていないと 納得できないことになろう。

これらの根底には、父権主義や国民皆保険制度の マイナス面などがあると考えられる。

わが国でのICは、医療者側のトラブル回避・自己防衛手段として輸入された面が強い。

診療では、常にICを念頭に置き、特に危険性が伴う手技の前には、医師はその必要性と危険性を十分<説明>し、患者はその内容と随伴する有害事象を理解し、そのうえで主体的に<同意・承諾・拒否>を決め、文書で残しておくことが大事である。

社会の色々な事が、問題として取り上げられるのは、

あるべき姿を反映していないからである

インフォームド コンセントの生い立ちを見てきたが、これは医学・医療訴訟をなくす防止装置ではなく、本来の医療を形成する過程に含まれる、必須行為の一つなのである。これが蔑(ないがし)ろにされてきた故に、声高に叫ばれてきたのである。

多くの医療事故や過誤、そして人体実験を省みて出てきた幾つかの認識は、<“ To err is human ”ヒトは間違いをおかす>、<医療には不確実さがある>、<医療の主体は患者で、その人権を尊重する>、<医療には知識格差がある>などということである。

これらを総体として捉えて、医療者・患者側が共に医療に向き合わねばならない。

そもそも医療の目的は、「傷病で苦しんでいる人に、正確な診断を下し、適切な治療を行い、最高の結果を引き出す事」と言えよう。それでは最善の診療とは何か、如何すれば実現できるのか。それは、<医師・患者双方が、まず自分の立場を弁え かつ互いの立場を尊重し、信頼に結ばれ、疾病に一緒に立ち向かう事>であろう。診療とは共同作業であって、敵対・対立関係ではないのだ。この結びつきを強固にし、よりよい成果を出す過程にインフォームド コンセントが含まれているのだ。

“人間の生命”を対象とし、立場のまったく異なる二人の共同作業であるが故に、それぞれが自分の使命や能力をしっかりと自覚している事がまず肝要である。

<医師>は、医療の専門家として、日々研鑚を積み、知識と技術をupdateし、合理的な診療を行う。そして得られた医療情報を分析・統合し、自分達の能力をも勘案し、患者にとって最善の診療は何かを考えて提案し、同時に危険性をも伝える。説明の際には、医学知識の隔差を認識して患者が理解するまで丁寧に、そして内容提示は公平に行う。また個々の患者の自主性を重んじ、人生観や社会背景などを忖度しつつ、決定を待つ。

医師は、傷病に対しては 科学者としての論理的思考と熟練技術でアプローチし、病んでいる人には 思い遣りのある倫理的配慮を心掛け、全人的な対応が必要である。

一方<患者>は、自身の生命にもかかわる事柄なので、これまでの病歴や嗜好、家族関連の問題など 余すところなく医師に伝える。診療で集められた自己情報は、受け取るだけではなく、不明な点は自分で調べたり 尋ねたりして充分理解する。素人なのだから分からないのが当り前、専門家への質問を遠慮することはない。そして予想される診療の有利・不利の確率とバランスを考え、時には自分の人生哲学に照らし、主体性を持ってその時点でベストと考えた決定を下す。家人に相談するにしても、最終的な判断は自分で行うべきだ。一旦結論が出たら、前向きに取り組む姿勢も大事。

そして<両者>は、出た結論については 患者の自主性を最大限尊重するが、方針に齟齬が見られた場合は、納得するまで話し合うことが大切である。Second opinionを求めてもよい。何故なら、医療は共同作業であり、双方の呼吸がピッタリと合うのが最善であるからだ。また、納得尽くでの診療ならば、たとえ結果が好ましくない形であっても、後悔せず 受容出来るのではないだろうか。キーワードは、『納得』である。

 以上が 筆者の考える医療と そこに織り込まれるインフォームド コンセントのあり様だ。すべての患者が 十分な医療知識を即時に身に付け、的確な判断をするのは困難であろう。まずインターネットなどで病院と医師を検索し(スクリーニング)、そして実際の診療のやり取りの中で、その医師の人格や能力を見極め(相性も含め?)、また病院全体の雰囲気を把握して、信頼に足ると思ったら-父権主義の謗りを免れないが-任せるのも立派な自主的判断といってよいのではないだろうか。

 「権利」や「義務」という言葉は、医療という協調の場には相応しくない。

ところで“ informed consent ”の和訳だが、何が適切だろうか

研究被験者や患者の権利に関する3宣言の英文では、私の知識や和英辞典で『同意』にあたる“ agreement ”が一切出てこない。和英辞典の“ consent ”には、同意のほかに承諾や許可が併記してある。

<医学研究や治験>では、医学の進歩や創薬のために、健常人や病人に参加を依頼するという意味合いから、“説明と承諾”が最適と思われる。

一方<一般診療>では、意味する所の広さ・深さを考えて適訳がないなら、「インフォームド コンセント」をそのまま使うのが 現時点では妥当であろうか。無理に訳すると、本来と異なる意味に解される恐れがある。ICは和訳するのが目的でなく、その医療上大切な観念・行為の周知が大事なのである。でも「同意」という受動的でなく、患者に主体性を持たせた言葉、例えば“承諾”、“了解”や“納得”などがbetterと思うが・・・。

余談

アメリカでの医療を読み聞きして思うのは、<人権の尊重>は勿論大事だが、患者の権利が過剰で、その侵害がすぐ訴訟に結びつく社会では、医療者が「触らぬ神に祟りなし」や「君子危うきに近寄らず」となり、結局 患者自身に不利益な事があるのではないだろうか。「過ぎたるは及ばざるが如し」、一種の「自縄自縛」の状態に陥っているのではないか。

また医師も、自律を重んじるのは結構だが、“ unwise decision ”の尊重?やすべての診療方針の決定を患者にさせる事が 本当に合理的で、良心に適っているのだろうか。「十分に説明すれば、すべての患者が“ wise decision ”出来る」と考えるのが異常で、これが 患者の最高の利益を考えての行動なのだろうか。医療側の自己防衛的対応と感じられもする。

日本では、診療行為は 文書を取り交わさないが 契約にあたる。ICでは文書を取り交わしたりするが、これは契約に含まれる患者の「知る権利・決定する権利」とこれに対応する医師の「説明・告知義務」の履行にあたり、ICは両者が合意に達した際の『診療行為に対する患者の承諾』と言えよう。契約とは合意によって成立する法律行為で、見方によっては、相互に信頼が出来ないから違約条項などを入れて結ぶ、双方の自己防衛の担保行為ともいえるのではないか。理想は「黙契」とか「暗黙の了解」だろうが、これには強い信頼関係が前提だ。欧米、特にアメリカは 様々な人種、従って文化、宗教などが多様性に富み、この取り纏めとして、明文化された契約、法律行為が必要な社会と思われる。

「権利」や「義務」という言葉が出てきたが、これらは憲法・法律用語で、特に日本では裁判で使う、<一揃いの争い言葉>である。法は 国が定めた 社会の最低限のきまりで、これを使用する時は、人間関係の不信が前提か破綻した状態と言ってよい。医療の現場で、こんな事に労力を費やしてはいけない。「権利、義務、責任」が大きく掲示されていたり、これらの言葉が医師と患者の口を衝いて出る病院では、私は診て貰いたくはない。病院・ホスピタルは、<人を丁重にもてなす宿泊所>に由来する命名なのだが、そのように感じるだろうか?

病院は、より良い心身状況を目指す医師・患者の共同作業の場で、諍いの所ではない。全ての患者は、人として尊重されるべき様々な権利を有し、医師は命を扱う専門職としての義務が課せられている。お互いこれらを当然の事として心の中に置き、信頼関係を築く事が大切と思われる。現在は、医師の権威主義などで人権が侵害された反動で、患者の権利が全面にでている時代なのだろう。時計の振り子が一方に大きく揺れすぎて、今は逆方向に傾き過ぎている。

アメリカ式に流されず-良い所は取り入れて-日本人に適ったICが望まれる。

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